昭和42年05月27日 夜のご理解
信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと。私共は自分の心が神様に向かって進んで行くと言う事を楽しみの、信心にならなければならない。所が果たしてお互いの信心がどう言う事であるか。おかげに向かって信心を進め様としている。是ではおかげが進まなかったら信心は進まない。また、おかげも進む筈がない。同じ所でぐるぐる回っておるだけ。
おかげを受けた様であっても、又次ぎには、お願いをしなければならない、様な事が起きておるといった様にですね。自分の心が神に向かって行くのを、信心というのじゃと仰るのだから。生神とは、ここに神が生まれると言う事であって、ともここに仰せられる。此の方の事を生神、生神というけれども、此の方ばかりが生神ではない。皆もこの様なおかげが受けられると。
生神とは、ここに神が生まれると言う事であると。生神とはここに神が生まれると言う事。その生まれなさった生神様がです。段々成長して行かねばならない。自分の心の中に信心が有難いと言う物が、頂けたらもうそれが生神なんです。生神というのは、何かこう千里眼的な事を言うたり、そういう様な事を現したりする、人を生神の様な表現をしますけど、そんなこっちゃない。
生き神とは、お互いの心の中に、生き神になれる一切の素養と言う物を持っておる。万物の霊長である人間である以上は。ですからその生神がその自分の心の中に、本当に信心させて頂く喜びというか、信心とは、有り難いと言う物が生まれて来た時には、もうすでにそこに生神が誕生しておる様なものである。その生神が誕生した、生神を育てて行くと言う事がです。和賀心がいよいよ神に向かうて行く。わがこころが神に向かうて行くのを信心というのじゃとこう言われる。
そこでお互いの信心がです。おかげば頂かならんけん、一生懸命お参りしておるという時代から、いわゆるおかげ信心から本当に我心が神に向かうて、自分が一年一年有り難うなって行くのが、楽しみに信心させて貰わなければならんのです。今日、丁度私が昼、下がろうとしておる時に、山口の長田先生が大祭のお礼参りに参拝して来ておりました。下がりまして、一緒にお食事をさせて頂きましてから。
色々2時間位お伺いごとやらお話しやら、信心のお話しをさせて頂いたんですけれども、その中にです、「実は先生、お取り次ぎもさせて頂きましが、「ゆきじ」が今度また病院に入院する事になりました。古賀先生の子供ですね。本当にもう先生あなたの手を離れたらもう、途端にこう言う事になってしもてから、まあ少し辛抱すりゃいいのに、親子のものが途端に苦しんだ。それでまあ色々とあちらの親先生にもご迷惑かけてから、とにかく月々に1万5千円からお金がいる。
それがあちらでは収入が全然ない。唯お父さんが戦死されてありますから、その恩給ち言うですか、それが来るだけなんです。それでそれを市の方へ半分にして貰って、やっと交渉して貰ってなったけど。それでは、自分達の小遣がない。そこで又何かの機会に縋ってその事を頼みに行って、まあ、どうやらこうやら、一時の病院に通わせて頂けるだけの事は、出来る様になったんですし、又お母さんの方は、飯塚の方で修行させて貰っておりますから、お金は要りませんけれどもです。
けれども、お母さんの方も病院に入院しなければならない様な、状況が時々体に起きて来る。本当に暗澹たる毎日を過ごしております。とこう言う。今日も帰りに「ゆきじ」が入院しとる病院に行かせて頂きたいと思いますので、昨夜親教会におかげを頂いて、そしてこちらに見えておられるんです。その事を明日合楽の方にお届けに参りますけど、どうぞ「ゆきじ」の上におかげ頂きます様にと言う事を、神様にお届けして休ませて頂きましたら、今朝方からお夢にこう言う事を頂いている。
こちらの親先生のお声で私の声です。「そちらの方の道に行ったら、生神とは、ここに神が生まれると言う事ぞという、その信心を抵当に置く様なものぞ」というお知らせを頂かれました。そちらの道を行くと言う事は、そちらの道を行く事は、生神とはここに生まれると、言う事ぞというそれを抵当に置く様な者ぞ」それを抵当に置く様な物じゃ。と。私それを頂きながら確かにそうだなと思うんですよ。
それを抵当に置かずにです。自分の心の中に頂いて行ったらです。抵当におかんでもいいでしょうが。その道を歩いたらいわゆる生神の道を歩いたら、折角信心させて頂いておかげを頂いてです、例えば特にお道の教師でも志しいや教師にならせて頂き、いよいよ人の助かる事の為の布教にでもに立たなければならないという人がです。いよいよ自分が生神のおかげを頂かれる様なチャンスに恵まれておると言う訳なのです。
親子の者が本当に途端の苦しみ、途端の難儀に直面すると言う事は、その途端の難儀、苦しみこそです。いよいよ力を頂く事の材料であり、いよいよ自分の心の中に、生神を生神たら締められる所の働きに、なって来る物がです。それを置いて、病院に入院する、あちらに縋るこちらに縋ると言う事は、そういう我心の中の生神というものを抵当に置く様な物じゃ。と。長田先生その事ですもんね。
特にお道の教師をさして、取り次ぎさせて頂く者は、難儀じゃありません。それは、難儀と思わず、その事こそ我心の生神を生神としての、働きをなされる事の神様の働きなのだ。難儀と思うておるが、難儀じゃない。いよいよ私に、力を与えて下さろうとする働きなのであるから、そこんところを抵当に置く様な事をしてはなりませんな。と言うて、話した事ですけれども、これは、取り次ぎ者だけの事だけでは、ありません。お互いの場合でも同じなんです。
難儀な問題、困った問題というけれども、その困った問題こそ、難儀な問題こそです。我心が、神がいよいよ生神としての、値打ちを発揮される事の為にです。その問題はあるのであるから、それをあっちさ持って行ったり、こっちさ持って行ったり、回り回っておったんでは、いわゆるあちらに抵当に置いたり、こちらにも抵当に置く様になって、とうとう自分の体が抜ける様になってしまうんです。
私今佐田さんのご夫婦の、お話しを聞かせて頂いて、本当にああして熱心に、今朝なんか、お参りも出来られますし、信心も出来られますし、けれども、同業者の中に今朝、ある方がですね。自殺をされた方があった。もう相当年配の方ですけれども、そのゆきづまってしまってですね、自殺をされたというんですよ。私聞いてから、本当に、自分で自分の命を断つてんなんてん、ほんなこて、本当になんとか、助かりは無かっただろうかと、私は、思いました。
「佐田さんそりゃ、あんたの周囲にそげな人があるとなら、どうしてお導きせんじゃったの」と私は、申しました。同じ久留米市内の中にしかも同業者の中に、本当にそういう死ぬか、生きるかという様な、難儀な問題を抱えておられるという人にです。もし、ここに助かりの道がある、助かる場があると、言う事を教えられたら、それこそおぼれる者は、わらおも掴むと言う様な信者でも、もし、ここにご縁を頂いておったなら、そこから。 おかげを頂いていかれる道が開けておるのに。
そりゃ、なんと可愛そうな事したもんだな、自分が死んだからといって助かる道はないのです。もう、自殺的行為の中からは、絶対御霊になっても助からんです。そりゃそうですよ。神様から頂いた命を自分で断つのですから。げなご無礼なこつはないですよ。いよいよ助かりません。そういう御霊は。本当に、佐田さんそういう方が周囲におられてから、お導きが出来じゃったと言う事はあなた( ? )と話した事でしたけれど。そういうそれを難儀と思うておるから、もう自殺せなんごとなってるのですよ。
ところがそれを難儀といわず、それをです。自分の心の中の神がです。わが心の神がいよいよ神たらしめられる為に。自分で自分の本心の玉が磨かれる為に、いよいよ自分で自分の力を頂かせて頂く為に、いよいよわが心の神が成長するところの、言わば、原動力にもなる様な内容を頂いておりながら、それを難儀と見てそうした自殺的行為となったり、あちらに迷い、こちらに迷いしてそれを抵当に置くような事をするから。自分の身動きが出来ん様になってしまう。
私その事を長田先生から聞かせて頂きながら、本当にそうだな、お道の信心をさせて頂いておっても、大抵信心は、分かっておるというてもです。本当に自分の難儀を抵当において、自分がいくらか楽になろうとしておる人が、沢山おろうと思うです。本当の事が分からんから。その道を歩いたら、生神とは、我が心が神に向かうのぞと。生神とは、という。それを抵当に置く様なものぞと。言う事をです。今朝先生のお声で頂いたんですよ。と言う事を聞かせて頂いて。
どう言う事だろうかと思うたら、今の様な事を話したんですけれどもですね。確かにそうですねと言うてまあ今日もわが家に帰りに「ゆきじ」のとこに寄ってから、その事を伝えさせて頂こうというてから、帰られましたんですけれどもね。確かに信心とは我心が神に向かうのを信心というのじゃ。おかげを頂く為の信心ではないのである。それはおかげを頂かなんのも事実なんだけれども。おかげを頂かなければならない様なその問題を通して私の心の中に神が向かうて行くという、信心にならなければね。
焦点を間違えるとです。一生涯堂々めぐりの信心になってしまうと言う事。何時も抵当に置きっぱなし。それこそ、利払いで一生懸命苦労せんならんです。利払いが出来ん様になると、身が動けなくなって、自殺行為にでもなって来る様な結果になって来るのです。そこで、その自分の中の生神様が、いよいよ太り育って行かれる事を楽しめる信心になっていかなければならないと思いますね。
どうぞ。